地獄あれこれQ&A ~後編~

地獄あれこれQ&A ~後編~

今月23日、いよいよ龍谷大学 龍谷ミュージアムにて開幕しました「地獄絵ワンダーランド」。ところで、「地獄ってぼんやりと『悪人が死後に行く世界』ってイメージ…」という方は多いのではないでしょうか??
そこで今回、本展のテーマと深くかかわる「地獄」についてもっとよく知るために、龍谷大学 龍谷ミュージアム学芸員の村松加奈子さんにお話をうかがい、たくさんの質問にお答えいただきました。
前編の記事も併せてお読みいただくと楽しさ倍増!怖さも倍増?!⇒地獄あれこれQ&A ~前編~



担当(以下「担」):死んだら即、閻魔大王のもとに行って、直々に裁判を受けて、天国か地獄行きか決められるってイメージなんですが…
村松学芸員(以下「村松」):実はそこがややこしくて、人間って死んでからがけっこう忙しいんですよ。山を越えたり川を渡ったりと、色んなミッションがあるんです。それを超えて初めていろんな王様に裁判にかけてもらえます。
:死んでからもそんな体力勝負なミッションがあるんですか?!


村松:実は生前の行い関係なく、死んだら第一関門としてみんな「死出(しで)の山」という山を越えないといけないんです。ただし例外もあって、山を越えなくてもいいラッキーな場合もあります。「来迎」というんですけれども、仏様からのお迎えが来て極楽浄土へそのまま直行できるということです。ただし「火車来迎」というお迎えもあって、これはそのまま前編でも出てきた阿鼻地獄、つまり一番厳しい地獄へ直行。この2つは手続きをふっとばします。だいたい普通の人は、ノルマとして山登りから始めることになりますね。

:山登りなんてできる気がしませんが、リタイアはできないんでしょうか?
村松:鬼みたいな人たちに、棒のようなもので下から追い立てられるようです。

:なんと手厳しい…。ところで、閻魔大王のイメージは??
村松閻魔大王のイメージも中国からです。実はインドでも閻魔は「ヤマ」という信仰の対象で、もともと死の国の王という扱いでした。それが中国に行くと、「十王の一人」という考え方にかわります。そして「何回も裁判を受けてどこに行くか決まる」というのは、中国の思想なんです。それが日本にやってきたので、インドの閻魔大王と日本の閻魔大王の考え方も全く違うということなんです。
前編でもお話ししたように、日本人の地獄のイメージはかなり中国化された地獄です。それはインドから中国に行って、「道教(タオイズム)」と混ざって中国的な地獄の思想が出来て、さらに朝鮮半島に渡って日本にきた…という形なので、ワンクッションずつ置いて伝わってきているというこの一連の流れがポイントなんですよね。日本人がつけ足した部分は、実はわりと少ないんだと思います。
このワシ「閻魔大王」についてもっと知りたい者は、ワシのイラストをクリックするのじゃ。


村松:考えられるのは、「私は落ちて裁かれるかもしれませんがどうかご容赦を」という気持ちもあったかもしれないし、「こうならないために日々一生懸命正しい行いをします」という祈りを表すために描いたのかもしれません。また「このような行いはしません」という決意の表れともとれるかもしれません。

:こうしたら地獄に行っちゃいますよ、みたいな戒めもあったんでしょうか?

村松
:それもあったと思います。こういうことにならないようにします、とか助けて下さい、だとか、救いを求める気持ちもあったと思うんですよ。例えば十王図という、死者が裁かれているところの絵があるんですが、「十王は仏様が姿を変えて裁いていた」という、仏様が方便のために冥界の裁判官になっているんだという考え方があったんですね。なので、「仏様、どうか助けてください!」という風にお願いする気持ちもあったのかなと。
 


村松:地獄絵には時代によって変遷があるというのが、今回の展覧会のテーマでもあります。亡者たちがあんまり大変じゃなさそうな絵も出てくるんですね。だんだんあまり怖くない描き方の地獄絵も出たかと思うと、同じくらいの時代に大きくておどろおどろしい怖い描き方の絵もあります。完全にポップ化されたわけではないんですが、明るくて亡者があまり困っていない、暖かい色使いの絵も出てきて、怖い絵・怖くない絵が混在してくる時代がありました。中世は人々もひたすらに余裕がなくて、許しのない地獄絵が多かったのですが、江戸時代くらいになると、教訓も風刺すらもないような、ある種漫画チックな絵も出てきます。例えばこちら。


:うわっゆるキャラみたいで可愛いですね~!!
村松:このころは文化が円熟してきたことにより、人々はすごく豊かな暮らしを享受していて、ちょうど今から30年くらい前のバブル期のような享楽的な文化がありました。なので「死んだあとどうしよう?」ではなく、「生きている今をどうするか」という考え方に重きを置くようになったのかなと、漠然とですが考えられます。
死への深刻度がある意味ではほぐれてきたのだと思います。だからと言って、信心が薄れてきたかというとそういういうわけではないと思います。少し気持ちに余裕ができたくらいで。


村松:他にも「死絵」を例にすると、歌舞伎役者の八代目 市川團十郎が、若い女性だけでなく老女や犬、はては猫にまで引っ張られて、死を惜しまれているというシチュエーションの絵があります。「死絵」には普通の似顔絵が描かれただけのシンプルなものもあるのですが、「それだとつまらないから死後を想像してもっと遊んでみようぜ!」という動きがあったのでしょうね。ちなみに・・・この犬と猫、三毛ですよね。犬はともかく、三毛の猫はメスしかいないんです。團十郎の女性人気の高さがうかがえます。


村松:こちらは見得を切っているような場面です。地獄に関する知識を知れば、描かれている子どもが石を積んでいるので、ここが賽の河原とわかるでしょう?しかも左側の丁石(ちょうせき)という街道沿いの道標には、「さいの河原・六どうの辻」と書かれています。これより先は賽の河原と六道の辻、ということです。つまり、團十郎はこれから六道の辻に行くところなんだ、ということが読み取れますよね。
:なるほど~。知れば知るほど作品が楽しめますね!

村松:また、團十郎の得意だったものに、児雷也豪傑譚話(じらいやごうけつものがたり)という演目がありました。その絵の上にある「賽の河原にあたる児雷也」という言葉は、「石が当たる」というのと「役が当たる」をかけていることが、一枚から読み取れる…というわけです。
:おおお!背景を知ることでより面白く!

村松:八代目團十郎は死に方が謎の自殺だということ、そして死の理由が不明なところも彼が神格化された一因ですね。死絵に描かれるということは人気の裏付けでもありました。
つまり、ご質問のお答えとしては、はっきり明言できないのですが①中国から十王図が輸入→②素朴な画風に→③怖さが緩和された絵→④劇画調といったステップを踏んでいます。なぜ明言できないかというと、それぞれのきっかけがはっきりとわかっていないので、「○○年にこういう絵柄に切り替わった!」と断定することはできないんです。



龍谷大学 龍谷ミュージアム 学芸員 村松加奈子

本当にたくさんの質問にお答えいただきました。予備知識ゼロの担当者にもわかるように、丁寧に解説してくださり感激です!掲載した画像は実際に出品される作品です。(一部展示替えあり)百聞は一見にしかず、ぜひ龍谷大学 龍谷ミュージアムへお運びいただき、実際の地獄絵をご覧ください!