「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」ちひろ美術館・上島史子氏ギャラリートーク(前編)

いわさきちひろ(1918-74)の生誕100年に合わせて、「絵描き」としてのちひろの技術や作品を彼女の生き方とともに振り返る展覧会「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」
開幕初日の16日、本展主催のちひろ美術館・主任学芸員、上島史子氏によるギャラリートークが行われ、大勢の人が訪れました。その模様を、2回に分けてお伝えします。今回は前編です。


<写真=アトリエにてスケッチするちひろ 1970年(51歳) ちひろ美術館蔵>

最初に上島さんは「いわさきちひろ」と聞いてぱっと思い浮かぶイメージを会場に問いかけます。会場からは「息子を描いている」「子どもの本のイメージ」と、「子ども」という印象が浮かんだ方が多いようす。
本展序盤は、ちひろの少女時代から画家になるまでの資料が紹介されています。大正から昭和初期にかけて、先鋭的な画家が活躍していた雑誌「コドモノクニ」やマリー・ローランサンの絵に憧れて育ったちひろは、14歳から洋画家・岡田三郎助(おかだ・さぶろうすけ)の自宅に通い、デッサンと油絵の基礎を特訓しました。
戦前・戦中の作品はというと、残念ながら大半は空襲で焼失していますが、本展には1940年代前半に描かれた油彩画「なでしことあざみ」が出品されています。

ちひろの感性が育まれた少女時代のことは、作品が現存しないため、展覧会では「紹介しにくかった」と上島さん。この後もちひろの生涯を振り返る本展だからこそ紹介できるような作品がたびたび登場します。

戦後、画業を再開したちひろ。「原爆の図」で知られる丸木位里(まるき・いり)・俊(とし)夫妻のアトリエに出入りし、特に人物のデッサンを繰り返して腕を磨きました。
畳の上で描いたと思われる跡や力強いタッチから、若き日の情熱が伝わってきます。

<写真=デッサン群を前に解説する上島さん>
ちひろは画家として活躍していくにあたり、より多くの人に作品を観てもらえるよう、絵本や挿絵といった印刷美術の世界を選びました。
子どもの本の画家として注目されるきっかけになった紙芝居「お母さんの話」(アンデルセン原作)では、ちひろによる繊細な原画と、職人の描き版による印刷物との違いも確認できます。

<写真=紙芝居「お母さんの話」全16枚の前で>

今回のポスターやフライヤーのメインビジュアルになっている「ハマヒルガオと少女」は、現在わずか14点のみが残存する貴重なちひろの油彩画の一つです。
上島さんはこの作品に描かれた、背景の曖昧さに注目。ちひろは敢えてフラットで装飾的な画面に仕上げたのではと推測します。

<写真=「ハマヒルガオと少女」1950年代半ば、キャンバス、油彩 ちひろ美術館蔵>
前述のように、ちひろは若い頃から油絵を学び、1950年代までは多くの油絵を描いていました。しかし、この作品以降は徐々に水彩画へと切り替わっていきます。
その理由として、水彩画のほうが自身の画風に適していると判断したことと、乾きが遅い油彩画は印刷に向かないと考えたことの2点が考えられると、上島さんは分析しています。

今回はここまで。後編では、画風を確立させていくまでの数々の挑戦を、色彩と線に注目しながら振り返ります。