本阿弥光悦×樂家

本阿弥光悦×樂家

「茶碗4碗ほどの白土、赤土を届けて欲しい」樂家に光悦の消息が残っている。「4碗ほど」この言いようは、光悦が土の仕事を生業とする樂家に対しての敬意が感じられると同時に、光悦自身の作陶への真摯な姿がうかがえる。土は無限にあるわけではなく、土を大切にしている樂家にとって、光悦は、それを理解し4つ分だけと言っているように思える。

本阿弥光悦消息 ちゃわんや吉左宛「ちゃわん四分ほと・・・」樂美術館蔵

そもそも、光悦と樂家の関係性は、どのような縁で繋がったのだろうか。当時、光悦の住まいは樂家から500mほど北に行った所にあった。また両家とも法華、日蓮宗の宗門であり、おそらく信仰を同じくして仲が深まったようである。

利休死後、将軍の御用窯ではない樂家は、財政的にも厳しく、光悦は、徳川家などの有力大名に、樂家を引き合わせるなど、樂家を大いに助けたようであり、そういった書状も残っている。事実、徳川家2代秀忠の墓からは、樂家2代常慶作の白釉阿古陀香炉が一緒に埋葬されていたのが見つかっている。

本阿弥光悦 飴釉茶碗 銘 立峯 追銘 五月雨 樂美術館蔵

また後に、樂家の5代目となる宗入は、雁金屋から養子として迎えられることにより、尾形光琳、乾山とは従兄弟、本阿弥家とも血縁を結ぶことになるのである。