“地獄”へ通った(!?)小野篁伝説~六道珍皇寺 坂井田住職にお聞きしました~前編

“地獄”へ通った(!?)小野篁伝説~六道珍皇寺 坂井田住職にお聞きしました~前編


9月23日より龍谷大学 龍谷ミュージアムにて開幕する「地獄絵ワンダーランド」に関連して、本展へ出品をいただいており、また閻魔大王の右腕として活躍したといわれる小野篁が、地獄との行き来に使っていたといわれる井戸があるなど数多くの伝説が残る六道珍皇寺(京都市東山区)の坂井田良宏住職にお話をお聞きしました。


―あの世とこの世の結界 六道珍皇寺―


平安時代、六道珍皇寺が建つここから東の山々は、鳥辺野と呼ばれ、当時最大の「とむらいの場」でした。市中に最も近く、またなだらかな斜面が続いていることも、当時の風葬、鳥葬といった風習を考えれば好条件だったのでしょう。
俗説ですが、鴨川を三途の川に見立てていたとも聞いています。鴨川から東は冥界、魑魅魍魎の世界が広がっていると考えられていたのでしょうね。

当時の六道珍皇寺の境内地は今の約10倍あり、前を通っている松原通がもともとの五条通で鳥辺野への幹線道路でしたので、鴨川を渡ったらすぐに六道珍皇寺の境内地でした。亡くなられた方は、鴨川を渡りここで野辺の送りの後、鳥辺野へ運ばれたのでしょう。

まさにあの世への入り口であり、この世の最終地点。逆にあの世から見たら、この世への出口でもあります。ですからここが、あの世とこの世の結界とされ、六道の辻と称された所以ですね。

―六道まいり―


あの世への入り口であるということは、この世への出口でもあります。ですから、ご先祖の精霊がお盆に里帰りなされる起点となるわけです。六道珍皇寺では、毎年8月7日~10日にご先祖の霊をお迎えする「六道まいり」を行っています。ご先祖の霊が迷われないようにお迎えに来るのです。

まず参拝者は参道で売られている高野槙(こうやまき)を購入します。高野槙には昔から霊が宿るといわれており、戻ってきた霊は高野槙を依代(よりしろ)とするのですね。その後、本堂で水塔婆に故人の戒名を書いてもらい、お迎え鐘を鳴らして先祖の霊を呼び戻し、高野槙に霊を宿らせます。水塔婆は地蔵堂の前で水回向(みずえこう)し、高野槙は自宅へ持ち帰り精霊棚あるいは仏前に供えます。持ち帰った高野槙を、お盆が始まる8月13日まで自宅の井戸に吊るすお家もおありのようです。

―閻魔大王の右腕 小野篁―


※閻魔大王坐像および小野篁立像は、「地獄絵ワンダーランド」には出品されません。

小野篁は平安前期に活躍した文人官僚、いわゆる朝廷の閣僚ですね。孝昭天皇を先祖に持ち(敏達天皇との説もあり)、遣隋使として有名な小野妹子の子孫でもあります。いわゆる高級官僚で、外交官の家系に生まれ育ちました。漢籍が堪能で法律にも詳しく「日本の白楽天」とも呼ばれていたそうです。

身長が六尺二寸(約186cm)と大柄で、乗馬や弓道にも長け、不羈奔放な性格は野狂とも揶揄されたようです。

篁も遣唐使に任命を受けておりましたが、常々より「もう唐から学ぶことは無い」と言い、遣唐使の乗船も仮病を装い拒否、また遣唐使制度を風刺非難した「西道謡」という詩も作ったことから、嵯峨上皇の怒りをかい、隠岐国へ島流しとなりました。そのとき詠まれた歌が「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」で、百人一首でも有名な歌です。当時の島流しは死に準ずるもので、地獄を味わっているも同然でしたが、約1年半後、異例の対応として、嵯峨上皇の恩赦により都に戻されます。

篁はこのように言いたいことを言う奔放な性格でありながら、正直者で才能豊か、とりわけ法律にも詳しく、また地獄と呼ばれる状況からの復活体験もしていることから、閻魔大王の右腕として活躍することになっていったのでしょうか。

次回Vol.2では篁と六道珍皇寺の関係、篁が残した伝説をご紹介します。

<六道珍皇寺から出品される作品①> 小野篁・冥官・獄卒図 江戸時代


◆後編は8月13日(日)に公開の予定です。