生誕130年記念 小野竹喬のすべて その4
第二章「至純の時代 1939-1979」のみどころ
◆至純の時代 竹喬様式の確立へ
竹喬は表現の模索の果てに、1939年《清輝》を発表し、線描を抑えて色面による表現をはじめます。この様式の転換は、竹喬の精神面の変化が大きく関係していると考えられています。竹喬は、1936年5月に実母、6月に親友土田麦僊、10月に次女英子を亡くします。次いで1939年11月には国展の同志村上華岳、1942年8月に師竹内栖鳳が死去します。さらに1943年12月に画家を目指していた息子春男の戦死は、竹喬の自然に対する見方を変化させました。
1944年 《月》 笠岡市立竹喬美術館
空の色は吸い込まれるような青です。竹喬は戦後「(春男の)戦死の報を受け取ったとき、その魂が空にあるような気がした」と言っており、悲しみを経て自然に対して帰依するかのように、虚心になることに努めています。
1947年 《仲秋の月》 笠岡市立竹喬美術館
仲秋の澄んだ空の色と、明るく清々しい画面は新たな始まりを感じさせます。相次いで失った麦僊、華岳、栖鳳、春男、先立った人々の分まで仕事をするという決意があったのかもしれません。この年の4月に竹喬は帝国芸術院の会員に推挙され、京都画壇の中核を担う存在となっていきます。
1968年 《夕茜》 岡山県立美術館
竹喬の代名詞ともいえる茜色の空と、夕陽を受けた樹の輝きが印象深い作品です。竹喬独自の鮮やかで澄んだ色彩は、多くの人を魅了しました。
竹喬が描いたのは、樹や雲、空など日々の暮らしで絶えず目にする、さりげない自然の美しさです。竹喬は「自然を見る眼が、いつとはなしに、私の心意のうちに流れてきて、それが自然な形をとって、素材として提示されてくるように思う」と語っており、竹喬のまなざしによって捉えられた風景は、私達に何気ない風景の中にある美を教えてくれます。
生誕130年記念 小野竹喬のすべて 第二章「至純の時代 1939-1979」
会期:9月7日(土)~11月24日(日) |
笠岡市立竹喬美術館「生誕130年記念 小野竹喬のすべて」展 その1
笠岡市立竹喬美術館「生誕130年記念 小野竹喬のすべて」展 その2
笠岡市立竹喬美術館「生誕130年記念 小野竹喬のすべて」展 その3