生誕130年記念 小野竹喬のすべて その2
第一章「模索の時代」のみどころ
◆画業のはじまりから大正期の京都画壇
小野竹喬は1889年笠岡市に生まれ、温暖な気候と穏やかな瀬戸内海の海に囲まれた町で育ちました。
14歳の時、兄の紹介で竹内栖鳳に師事し、日本画家としての道を歩み始めます。
1906年 《野之道(蕉翁句意)》 笠岡市立竹喬美術館(寄託)
栖鳳の塾には、塾生がそれぞれ作品を提出して批評しあう研究会があり、この研究会に竹喬がはじめて出品した時、栖鳳は「絵はまだ幼稚であるけれどもどことなく素直なところがあってよい」と評価しました。栖鳳は竹喬作品の趣や気分を評価しており、このような指導方針が、のちの竹喬の清澄な表現につながっています。
1909年 《花の山》 個人蔵
吉野の桜の風景を描いた作品。桜の樹皮のゴツゴツとした質感や地面の起伏を丁寧に描写し、少しずつ竹喬の個性が開花しています。
1911年3月 京都市立絵画専門学校卒業式 後列左端に竹喬
竹喬は栖鳳の勧めで1909年に日本画専門の上級学校として創設された京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)の第一期生として入学します。
ここで学んだことで、竹喬の交友関係は広がり、世界の美術に触れることになります。
1911年 《南国》 京都市立芸術大学芸術資料館
この作品は、美術評論家でもあった田中喜作に見せられたモネの画集の影響を受けて、色による点描表現を試みたものです。樹や大地の着彩を、にごりのない同系色の点描で塗り重ね、モネの光にあふれる表現を取り入れようとしました。
はじめは栖鳳の影響が色濃い作品を制作していた竹喬でしたが、徐々に自分の表現を模索するようになります。
その中で次第に西欧絵画を意識し、影響が大きくなっていきます。
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