「国画会90年 孤高の画家 渡辺貞一」ギャラリートーク後編 洋画家・渡辺貞一とその時代

 10月20日、本展2回目のギャラリートークが洋画家で国画会会員の佐々木豊(ささき・ゆたか)氏と、本展特任学芸員の大竹真由(おおたけ・まゆ)氏のお2人によって行われました。ここでは、ギャラリートークの後編として、その内容をまとめています。※ギャラリートーク前編はこちらからご覧いただけます

■絵肌の魅力

洋画家、渡辺貞一(わたなべ・ていいち)が国画会の会員になったのは1958年のことでした。同じ年、佐々木さんは初めて国展に出品します。
賞を絶対に獲ろうと当時の国展の入賞作品を分析した佐々木さん。そこで発見した2つの特徴に、貞一の作品も共通する点があるといいます。
ひとつは、抽象的であること。もうひとつは、絵肌の美しさです。

<写真=洋画家・国画会会員の佐々木豊氏。左は『雪国少女』>
当時、下塗りを重ねた、工芸的ともいえるような絵肌をもつ作品は、国展の審査会で評価が高い傾向にあったそうです。
貞一の「雪国少女」(油彩・板、七戸町蔵)は、厚塗りした絵肌を引っかいて描く「釘描(ていびょう)」と呼ばれる貞一自身が考案した技法が用いられています。
引っかくことでちらちらと現れる色合いも、貞一の作風のひとつ。
大竹さんによると、後期になるにつれ、色を重ねては引っかく工程を繰り返すようになり、初期の作品とは違った色が出ているのだそうです。

「フラメンコの女」油彩・板 七戸町蔵

■時代をうつす色彩

生前の貞一に何度も会ったことがあるという佐々木さんは、彼の印象を「小柄で精悍で苦みばしったいい男」と振り返ります。
細い身体に、険しい表情。それらが物語る、自身が命の危機にさらされた、暗い戦争の経験。
幾度も生死の境におかれたような人生経験から、静寂な画風を開いた貞一。ただ、こうした絵が多いことの要因はそれだけではないようです。
佐々木さんによれば戦後しばらくは画壇全体として、戦時中の不安な心情を写したような暗い絵でないと「許してもらえない」風潮があったのだとか。

<写真=「月と鳥と川原の風景」の一角にて。右は本展特任学芸員・大竹真由氏>
さらに佐々木さんは、もうひとつの要因として、彼の故郷・青森の風土も関与していると推測します。
ギャラリートーク前編で、「年に5か月は雪に覆われ白黒の世界になる」と紹介された青森でしたが、画家は自分が生まれ育った土地の空気感を描くことに心地よさを感じるといいます。
北国の冬の暗い空、澄み切った空気……。東京での生活が長かった貞一にとって、これらは大切な故郷を思い出させる要素だったのでしょう。

■欧州旅行を終えて

1964年、貞一はヨーロッパ各国を巡る旅に出ますが、帰国後に描かれた作品をみると、少し雰囲気の変化を感じられます。
ところどころに、明るめの配色がみられるのです。

<写真=「相変わらず空は暗いね。でも建物の色づかいが違う」と佐々木さん>
時代が進むにつれて、画壇全体に漂っていた、抽象的かつ陰鬱(いんうつ)な絵でなければならないとの風潮は薄れていきました。
貞一に近い世代の松本竣介(まつもと・しゅんすけ)や長谷川利行(はせがわ・としゆき)といった画家もまた、暗い色彩に叙情を込めたような作品を多く残しました。
明るく軽い絵が主流になりつつある現代。佐々木さんは「これらの作品をみると、暗い中にリリシズムの漂う戦後の画風を思い出す」と話し、高い精神性が秘められた作品の数々を懐かしんでいました。
 


「国画会90年 孤高の画家 渡辺貞一 ―私の信仰は絵を描くことです―」は、11月11日(日)まで美術館「えき」KYOTO(ジェイアール京都伊勢丹7階隣接)にて開催中です。展覧会についての情報はこちらから。