カブや花、鯉など身近なモチーフの中に“奥深い美意識”や“静かな感動”を込めて描いた画家・徳岡神泉に焦点を当てた展覧会「徳岡神泉―深遠なる精神世界―」を、京都府立堂本印象美術館で開催中です。
徳岡神泉を紹介する展示は、京都では1996年に京都国立近代美術館で開催されて以来、20年ぶりの開催となります。
でも、徳岡神泉っていったいどんな画家?
ここでは、11月3日(土・祝)に開催された講演会「徳岡神泉が求めたもの」(講師:堂本印象美術館主任学芸員 山田由希代氏)の内容をもとに、徳岡神泉についてご紹介します。
~優等生から文転落選、苦悩の青年時代~
明治29年、京都市中京区の神泉苑の近くで、徳岡神泉(本名:徳岡時次郎)が誕生します。
“神泉”という雅号はこの神泉苑にちなんだものです。
神泉は幼少のころから、非常に絵がうまく家族からも将来は画家になるのではと期待されていました。
神泉がスケッチをしているところに、当時活躍していた画家・土田麦僊がたまたま通りがかり、そのあまりの上手さに驚愕したという話も残っています。
その後、麦僊の勧めで竹内栖鳳の画塾“竹杖会”に入塾し、本格的に絵画を学ぶ事になるのです。
このとき、神泉は13歳でした。
その翌年の14歳の頃には、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。
その後、画塾と学校の両方で熱心に学び、校友会展出品作《海老》が金牌を受賞、卒業制作《水汀(寒汀》が学校買取になるなど活躍しました。
京都市立絵画専門学校に進学後も、優秀な成績を収めつづけます。
しかし、学校では優等生だった神泉ですが「文部省美術展覧会(文展)」ではその作品が受け入れられることなく、何度も落選が続きます。
度重なる落選で精神的に追い詰められた神泉は、「芸術とは何か」と思い悩み、寺を巡ったり、放浪の旅にでたりと苦悩の2年間を過ごすこととなったのです。
本展では、神泉の戦後の代表作を中心に紹介していますが、文展様式を取り入れた青年時代の作《魚市場》の下絵も出品されています。
文展落選による募る焦燥感が垣間見える一作です。
次回は、神泉の転機となった岩淵での制作について紹介します。