【報告】講演会「駆け足で見る!大正・昭和期の京都の日本画」<前編>

【報告】講演会「駆け足で見る!大正・昭和期の京都の日本画」<前編>

「蘭島閣美術館コレクション 京の日本画家が描く情景」の関連イベントとして、 講演会「駆け足で見る!大正・昭和期の京都の日本画」が開催されました。
講師は京都文化博物館学芸員・植田彩芳子さんです。
当日は多くの人が植田先生のお話を聞きに訪れ、立ち見の人が出るほどの大盛況でした。

講演会のテーマは、近代京都(大正・昭和期)の日本画史。
京都画壇の大家・竹内栖鳳以降から戦後にかけての京都の日本画にまつわる流れをお話してくださいました。
講演の概要を前後編の二回に分けてご紹介します。まず前編で取り上げるのは、明治後期~大正期のトピックスです。


駆け足で見る!大正・昭和期の京都の日本画 <主なトピックスと関連画家> 
〇明治後期~大正期の京都画壇〇

◆文展での活躍


明治40年、「文部省美術展覧会(通称:文展)」が創立。
審査委員には、当時から著名だった竹内栖鳳・山元春挙・菊池芳文などが就任し、
木島櫻谷・菊池契月・上村松園・西山翠嶂などの次世代を担う画家たちが、出品者として活躍しました。

>>関連人物
竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文、谷口香嶠、都路華香、木島櫻谷、菊池契月、上村松園、西山翠嶂、冨田溪仙、橋本関雪、石崎光瑤、西村五雲

 

◆洋画と日本画の交流


当時の京都画壇では、日本画と洋画の交流も盛んでした。
京都・大阪の洋画家を中心とする団体「関西美術会」(のちの関西美術院)の会合で、席上揮毫(その場で公開制作すること)として、山元春挙が薔薇を、竹内栖鳳が蝶を油彩の合作として描いたこともあるそうです。
明治35年の洋画家の大家・浅井忠の上洛時には、洋画家のみならず多数の日本画家が浅井の下に集い、明治39年には浅井の下に集まった小川千甕らの日本画家が「丙午画会」を結成しています。

>>関連人物
小川千甕、芝千秋、千草掃雲、神阪松濤

▼「黒猫会」と「仮面会」
明治43年、青年画家と批評家の談話会「黒猫会(シャ=ノワール)」発足。
批評家・田中喜作を中心に、浅井忠の門で学んだ津田青楓・黒田重太郎、当時まだ学生の土田麦僊・小野竹喬・秦テルヲらなどが参画し、洋画・日本画・作家・批評家を問わず若い世代の新しい芸術運動を目指しました。 
しかし、明治44年に黒猫会第一回展を開催にあたり、“作家の自由”を主張する津田青楓と、“作品審査”を主張する土田麦僊・小野竹喬・黒田重太郎・田中善之助・新井謹也とが対立。 
後者5名は「仮面会(ル=マスク)」を結成し独立しました。

>>関連人物
土田麦僊、小野竹喬、秦テルヲ、津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也

 

◆国画創作協会 


大正7年、文展で認められなかったことを発端として、土田麦僊を中心に、村上華岳・小野竹喬・榊原紫峰・野長瀬晩花らが反文展の美術団体「国画創作協会」を結成。 
大正15年には洋画部、昭和2年には工芸部と彫刻部を新設と規模を拡大します。 
当初の日本画部は昭和3年に解散しますが、洋画部は「国画会」と改称し現在も活動を続けています。

>>関連人物
土田麦僊、小野竹喬、榊原紫峰、村上華岳、入江波光、野長瀬晩花、岡本神草、甲斐庄楠音

 

◆文展から帝展へ

国画創作協会の結成などに動揺した文展は、大正8年に「帝国美術院(通称:帝展)」に改組。
審査員に中堅画家を抜擢、新進の画家を重視するなど、審査制度に手を入れました。

▼日本自由画壇
帝展の新進を重視の方針により、選外となる中堅画家が続出しました。
審査の人選や方法への不満の高まりを背景として、大正8年、伊藤小坡・池田桂仙・林文塘・小村大雲・植中直斎・井口華秋らなど計16名の日本画家が「日本自由画壇」を創設。
反官展の美術団体として昭和17年まで活動を続けました。

>>関連人物
伊藤小坡、池田桂仙、林文塘、小村大雲、植中直斎、井口華秋

▼日本南画院
大正10年、池田桂仙・田近竹邨・山田介堂・水田竹圃・河野秋邨らが「日本南画院」を創立。
顧問は富岡鉄斎・内藤湖南・長尾雨山

>>関連人物
池田桂仙、田近竹邨、山田介堂、水田竹圃、河野秋邨、富岡鉄斎、内藤湖南、長尾雨山


作品画像とともに解説しながら、時には、
「谷口香嶠の弟子には、個性的な面白い画家が多いんです」
「都路華香の『埴輪』に描かれている埴輪はモデルとなった埴輪が東大に保管されています。またここに描かれた人物は『日本書紀』に登場する、殉死の代わりに埴輪を提案した人物”野見宿禰(のみのすくね)”じゃないかと考えています」
などなど、作家や作品への豆知識や持論を交えてお話してくださいました。


後編では、昭和以降の京都画壇のトピックスについて紹介します。