第三章より~湖東焼「色絵菊花図平鉢」滋賀ゆかりの古陶磁たち

第三章より~湖東焼「色絵菊花図平鉢」滋賀ゆかりの古陶磁たち

「第3章*古の器に咲いた花」のシーンは、江戸時代後期から明治時代初期に使われた花の器です。

滋賀ゆかりの古陶磁
江戸時代中期以降、近江では多くの焼物が短期間に起こされました。主なものとして、大津市では膳所焼梅林焼瀬田(門平)焼三井御濱焼石山焼比良焼湖南焼河濱焼があり、彦根市では湖東焼、長浜市では長浜湖東焼、草津市では姥ヶ餅焼、野洲市では小冨士焼、湖南市では石部焼下田焼、甲賀市では信楽焼八田焼水口(光阿)焼、高島市では杣山(音羽)焼がありました。
しかし、現在はほとんどの窯が廃絶し、幻のやきものといえます。


湖東焼「色絵菊花図平鉢」 江戸時代後期(19C前半製作) 
滋賀県立陶芸の森 陶芸館蔵

写真は、色とりどりの<菊花>を描いた湖東焼のうつわです。
湖東焼は江戸時代後期の文政12(1829)年に彦根城下の商人・絹屋半兵衛らによって開窯し、天保13(1842)年に彦根藩の藩窯となりました。京都、瀬戸、九谷など、先進のやきもの産地の優秀な陶工を雇い、高い作陶技術と流行の作風を取り入れ製作されました。

菊花は中国では仙花といわれ、高潔な花として君子(人格者)に例えられました薬効もあり、日本へは奈良時代に中国から薬草として伝わったと考えられています。そして中国の慣習に倣い9月9日の重陽(ちょうよう)の節句には邪気を払い延命長寿を祈って菊酒を飲みました。身近にありながら、美しく香も優れた菊は、絵画だけではなく室町時代には意匠化されるようになり、格調高い延命長寿の吉祥文様として好まれたのです。

戦がなく平穏な日々が続いた江戸時代には、都市部を中心に人々の生活が向上しました。江戸幕府による海路や街道の整備によって様々な物資や情報が流通し、人々の食生活も豊かになります。市街や宿場町には飲食店が立ち並び、ハレの日そして花見、花火見物など、人々は時には宴を楽しむようになりました。この結果、食器や茶器、室内装飾品の需要が増大し、佐賀県の有田や京都、瀬戸(愛知)、美濃(岐阜)などの大産地がこれに応えて多種多様な陶磁器をつくりました。それまで木器が中心であった日常生活器もやきものが増えていきます。次第に地方にも多くの窯が開窯するようになり、各地の窯で工夫を凝らした様々な色、形の器が焼かれました。


門平焼「鉄絵梅花文小鉢」 江戸時代後期(19C)製作
滋賀県立陶芸の森 陶芸館蔵

日本のやきものの多くは中国陶磁に影響を受け、様々な中国由来の吉祥文様が描かれました。
中でも四季の自然の移ろいを大切にした日本において、花は最も人気が高い意匠であったといえるでしょう。花は、それぞれ吉祥の意味合いを持ちます。
例えば、まだ寒い早春に、いち早く花を咲かせ清らかに香る<梅花>「高潔(清らかで慾がないこと)」の象徴、大きく華やかな花を咲かせる<牡丹>「富貴(裕福で貴いこと)」の象徴です。先人たちは、幸せへの願いを込めて花の器を楽しんだのです。


湖東焼「染付梅花図水鉢」 江戸時代後期(19C)製作
滋賀県立陶芸の森 陶芸館蔵


皆さんのまわりにも花を描いた古い器があるかも知れません。
花の器を通じて先人たちの幸せへの願いに思いを馳せてみてはいかがでしょう。